
この秋、私の長年の盟友とも言うべきイギリスの名テノール歌手ジョン・エルウィスが4年ぶりに来日します。彼は、少年時代にベンジャンミン・ブリテンに認められ、バロックのスペシャリストとなってからはレオンハルトにとってのナンバー・ワン・テノールと言っても良い存在となりました。
エルウィスの初来日は、1990年秋、第2回栃木[蔵の町]音楽祭の招聘によるものでした。以来、2010年までに彼の来日ツアーは12回を数えました。今回は、明治学院バッハ・アカデミーによる
バッハ《ロ短調ミサ曲》公演(10月13日、サントリーホール)のために招かれての来日。このブログにも何度かご紹介しているこの秋(10月26日)の
モンテヴェルディ《聖母マリアの夕べの祈り》(ヴェスプロ)は、特に彼の来日に合わせて企画したもの。その他に、私の伴奏による
シューベルト《白鳥の歌》(10月18日、横浜みなとみらいホール)もあります。
また、桐朋学園大学と明治学院大学で公開講座も開催されます。桐朋の講座(10月17日)は、バロックを中心に声楽曲の歴史を辿るもの。明治学院大学の方(10月21日)は、昨年生誕100年ということで様々なイベントが催されたブリテンについて、エルウィスが個人的な思い出を語りながら、ブリテンの歌曲をご紹介します。伴奏はピアニストの久元祐子さん、通訳は音楽学者の加藤拓未さんです。(モンテヴェルディ《ヴェスプロ》の魅力については
こちらもご覧下さい。)
■エルウィスとラモー
私がエルウィスの歌を初めて聴いたのは、1977年10月、レオンハルトの指揮によるラモーのオペラ《ザイス》(全曲)のコンサート形式による上演で、彼の役どころは主役のザイスでした。エルウィスの歌は、伸びのある高音域の美声もさることながら、その表現の素晴らしさが圧倒的でした。ウチのカミサンは、ヴァイオリンでオーケストラに参加していました。私たちの友人の故マリヤンネ・クヴェクシルバー(ソプラノ)もソリストの一人でした(
彼女が数年前になくなった時の記事が、このブログの初めの方にあります)。その他、ルネ・ヤーコプス(カウンターテナー)、マックス・ファン・エグモント(バリトン)、デイヴィッド・トーマス(バス)といった錚々たるキャストでした。
このプロジェクトは、フランダース音楽祭とドイツのWDR(西ドイツ放送局)の共同企画で、ブルージュで練習とレコーディングが行われました。私は、留学仲間の有田正広くん(フルート)と一緒に、ゲントでのコンサートに行きました。主役の二人(エルウィスとクヴェクシルバー)が素晴らしく、私たちは興奮しながら会場を後にしたのをよく覚えています。この時の録音は、その後、フランスのSTILからリリースされました。

次に彼の演奏を聴いたのは、1980年10月、やはりレオンハルトの指揮によるラモーの《ピグマリオン》とグレトリーの《ミダスの審判》でした。これはウチのカミサンの留学生活最後のコンサートでもありました。会場はケルンの放送局のホールで、この時の連れは、留学のためドイツに来たばかりの故・市川信一郎(音楽学)くんでした。ラモーの方はまもなく独HM(ハルモニア・ムンディ)からレコードが出て話題になりましたが、グレトリーもその後RICERCARからCDが出ています。

その後は、彼がタイトルロールを歌ったラモー《ゾロアストル》の全曲盤〔シギスワルト・クイケン指揮〕(独HM)が出て、ますますエルウィスとラモーの結びつきが強くなった印象でしたが、バッハ生誕300年の1985年、レオンハルトの指揮によるバッハ《ロ短調ミサ曲》(独HM)で、彼の「ベネディクトゥス」の名唱を聴いて、今まで知らなかったエルウィスの新しい面に目を瞠ったのでした。
■1990年の栃木[蔵の町]音楽祭
栃木[蔵の町]音楽祭は、市川信一郎くんを音楽総監督として、1989年に始まりました。当初は、私と有田くん、そしてヴィオラ・ダ・ガンバの宇田川貞夫くんを三本柱としてある程度以上規模の大きな作品のコンサートを行い、その周辺に、小規模な室内楽のコンサートを配する、というのが基本的な構成でした(この写真は、1983年にアンナー・ビルスマが初来日した時のもの。前列左が市川くん、右が私のチェンバロの弟子の岩永純子さん、後列が左から、私、チェロの諸岡範澄くん、宇田川くん、ウチのカミサン、チェンバロの故・芝崎久美子さん。市川くんと芝崎さんは昨年逝去されました。謹んでご冥福を祈ります)。

さて、1990年の第2回栃木[蔵の町]音楽祭では、私の部分の候補曲はヘンデルの《メサイア》でしたが、世の中で《メサイア》は頻繁に演奏されるので、普通にやられているのとは一味違った《メサイア》にしよう、と知恵を絞りました。その結果、音楽監督の市川くんのアイデアで、ヘンデル自身がオラトリオのコンサートで行ったように、休憩時間にオルガン協奏曲を演奏することと、ヨーロッパから声楽のソリストを招聘しようということになったのです。

その時、私が先ず最初に挙げたのがエルウィスの名で、市川くんも一も二もなく賛成してくれました。他のソリストは、ソプラノがマリヤンネ・クヴェクシルバー、バスがデイヴィッド・トーマスと、いつかの《ザイス》のメンバーが日本で再び顔を揃えることとなったのでした。カウンターテナーは、ちょうどその時来日中のヒリヤード・アンサンブルのデイヴィッド・ジェームズが手伝ってくれることになりました(下の写真はマリヤンネの夫妻)。

(右はデイヴィッド・トーマス)

私は、レオンハルトに電話してエルウィスの連絡先を教えて貰い、日にちの交渉をクリアするとすぐ、室内楽のコンサートの可能性を検討するため、彼の得意とするレパートリーなどについて訊ねました。そして、私が長年やりたいと思っていたモンテヴェルディのマドリガーレを彼が得意としていること、また、私が強い関心を抱いていたシューベルトの歌曲集《美しき水車小屋の娘》を彼もやりたがっていることなどを知ったのでした。
実際にいろいろな曲を練習しながら音楽的な意見を交換して行くうちに、私と彼とは波長がよく合って、すぐに十年の知己のようになりました。
ヘンデル《メサイア》は全体的に好評でしたが、エルウィスの歌唱は、特に最初の"Comfort ye"からアリア"Ev'ry valley"が、目から鱗の落ちるような名演でした。しかし、モンテヴェルディには更に心を動かされました。それまでコンサートやレコードで聴く彼の歌はラモーとバッハがほとんどでしたが、栃木高校に於ける《マドリガーレ》の公演を通じて、私は、彼こそは当代随一の「モンテヴェルディ歌手」であることを確信したのです。
実際のところ、これは私の不勉強の致すところで、エルウィスは80年代を通じて、レオンハルトをはじめ、ジャン=クロード・マルゴワール、フィリップ・ヘレウェーヘらの指揮で、オルフェオ、ウリッセ、ネローネなど、モンテヴェヴェルディ・オペラの主役を次々にこなしていたのですから、モンテヴェルディのスペシャリストとしての評価はとっくに確立していたのです。しかし、劇場に於けるバロック・オペラの上演状況についての情報は、この当時は、哀れなくらい日本には入って来なかったのでした。エルウィスの歌ったモンテヴェルディのオペラのレコードには、ジャン=クロード・マルゴワールの指揮による《ポッペアの戴冠》の素晴らしい全曲盤がありますが、残念ながらCD化されていません。また、《オルフェオ》や《ウリッセ》が録音されなかったのは如何にも残念です。

■私の夢の叶った『モンテヴェルディ音楽祭』
私は、エルウィスのモンテヴェルディの歌唱に惚れ込んで、彼を主役とする大規模な「モンテヴェルディ・プロジェクト」を企画して大阪のいずみホールに持ち込みました。そして、1992年春、大阪と静岡で「モンテヴェルディ音楽祭」が実現したのです。演目は、《オルフェオ》、《ヴェスプロ》、そして《マドリガーレ集》でした。
私はこの公演の数ヶ月前にオランダでエルウィスに会い、特に《オルフェオ》に的を絞って、音楽的な問題について2週間近くにわたって共に検討したのですが、彼は自分の歌うパートだけでなく、このオペラのほとんど全ての音符を非常に深く読んでおり、作品を解体するようにして教えてくれました。彼のドラマティックな歌唱がどのように組み立てられているかを具に知ることができたのも大変大きな収穫でした。私は、自分の浅薄さが恥ずかしくなって「指揮者」というポストを返上しようかと思いましたが、結局は、彼と共同で「音楽監督」を務める、という線に落ち着きました。
蓋を開けてみれば、演目はどれも好評。我ながら、なかなかの出来栄えだったと思いますが、出演者の持てる力を結集できたのは作品の力の然らしむるところで、改めてモンテヴェルディの偉大さを痛感したのでした。私は、オランダに留学して間もない1974年1月、『アムステルダム・モンテヴェルディ週間』をいう催しでモンテヴェルディの主要作品を体験し、以来「モンテヴェルディこそ西洋音楽史上最高最大の作曲家」と固く信じるようになりました。だから、この音楽祭で、ようやく私の念願が叶ったわけです。この頃はバブル崩壊の直後で、これがもう1年おそかったら、このようなお金のかかる企画はもう実現しなかったに違いありません。その意味で、私は実に幸運だったと思います。
以下は、《オルフェオ》の舞台写真です。

これは公演終了後の拍手時の写真。舞台上、オルガン・バルコニーの手前に階段の付いたアクティング・スペースをくみ上げています。

プロローグ。中央はムジカ(音楽の精)役のマリヤンネ・クヴェクシルバー。

左より、オルフェオ(エルウィス)、ニンフ(山内房子)、エウリディーチェ(佐竹由美)。

こちらは、シルヴィア/スペランツァ(希望)と二役のギユメット・ロランス。

第3幕で、オルフェオはスペランツァに導かれて地獄の入口にやってきます。

オルフェオの前に立ちはだかる地獄の渡し守カロンテ(トーマス)。

オルフェオとカロンテの対決。ここで歌われるオルフェオのアリアは、全曲中最大の聴かせ場です。準備の段階で、演出家と細かい打ち合わせをする時間がなかったのは、この公演での最大の失敗でした。この場面の登場人物はオルフェオとカロンテだけであるべきです。用事のないダンサーたちに周りをうろうろされたために、この場面の緊張感が台無しになってしまいました。

地獄の王プルトーネ(トーマス)と女王プロセルピナ(クヴェクシルバー)。

結局、エウリディーチェを失って一人地上に戻ってきたオルフェオは、限りない悲しみを歌います(第5幕)。

そこに、オルフェオの父であるアポロ(牧野正人)。

ここでは空間の使い方が効果的でした。

このオペラは、オルフェオとアポロの二重唱で締め括られます。
今回は、久しぶりにエルウィスとモンテヴェルディを一緒にやりたくなって《ヴェスプロ》公演を企画しました。この曲は、2年前、私のサントリー音楽賞受賞記念コンサートでも演奏しましたが、これほどの名曲になるといつでもやりたいのです。エルウィスの《ヴェスプロ》は随分何種類ものCDが出ていますが、ベルニウス盤がベストだと思います。でも本番では全く違う歌が聴けるでしょう。どうぞ、ご期待下さい。

(2012年7月、私のサントリー音楽賞受賞記念コンサートでも《ヴェスプロ》を演奏しました。)

-つづく-