2011年 10月 28日
ニコラウス・アーノンクール、大いに語る |
ちょうど1年前の2010年10月下旬、ニコラウス・アーノンクールが手兵ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスを率いて来日し、バッハの《ミサ曲ロ短調》、ハイドンのオラトリオ《天地創造》などの名演を聴かせたことは、古楽ファンの皆様には記憶に新しいことでしょう。私は、サントリーホールにおけるハイドン《天地創造》の公演の翌日(10月31日)、ホテル・オークラに宿泊中のアーノンクール氏を訪ね、30年ぶりのインタヴューを行いました。その場にはアリス夫人も同席され、終始和やかな雰囲気の中で楽しい話が弾みました。以下は、そのインタヴュー記事(《レコード芸術》2011年1月号に掲載)です。
W: 今回はアーノンクールさんの「最後の(!!!!!)来日」ということでもありますので、ちょうど30年前――1980年の11月――に日本に最初に来られた時のことを思い返しながら、お話を伺いたいと思います。その時も私が、同じ『レコード芸術』誌のために、インタヴューさせて頂いたのでした。あの頃は、日本における古楽器演奏もまだ緒に就いたばかりで、ヨーロッパから来られた本格的な古楽器の楽団としては、コンツェントゥス・ムジクスが初めてではなかったかと思います。
(下は、1980年夏、レオンハルトとアーノンクールのエラスムス賞同時受賞を特集したオランダの音楽雑誌の表紙の写真)
H: 私たちにとって古楽器で演奏するというのは、もう決して新しいことではありませんでした。イギリス、フランス、イタリアなどではまだ新しいとみなされていましたが、私たちのグループでは、1953年からやっていました。
W: 私は1971年にチェンバロを始めまして、それから間もなく、こういう新しいやり方のバロック音楽の演奏法というものがあるということを知りました。アーノンクールさんたちのレコードは、古楽器を始めたばかりの私たちにとってのお手本でした。
H: (1965年録音のバッハ《ヨハネ受難曲》のレコードの解説書の写真に見入りながら)これはレオンハルト、そしてリュートのドンボワもいますね。
レオンハルトは、この世界では、私にとって数少ない本当の友人の一人でした。私たちの弦楽器奏者は6~7人、レオンハルト・コンソートには5人ぐらいいたので、どうしても人数が必要な時には、ヴァイオリン2人、ヴィオラ1人貸してちょうだいといった具合で、彼が通奏低音を弾いて、よく協演しました。
W: 私は1973年にオランダに留学しましたが、向こうへ行って間もない1974年の1月に『モンテヴェルディ週間』というイベントをレオンハルトと協同でなさいました。アーノンクールさんは、コンツェントゥス結成の翌年(1954年)、ヒンデミットの指揮でオリジナル楽器による《オルフェオ》の初めての演奏に参加されて、強い衝撃を受けたと、京都賞の時のスピーチで述べておられますね。その時の演奏がこの春初めてCD化されたのを聴きましたが、驚くべき演奏で、あの時代によくあそこまで出来たものだと舌を巻きました。
W: 1974年の『モンテヴェルディ週間』は私たちにとって、「原体験」のようなものになりました。
H: ええ、よく覚えていますよ。あの時は《オルフェオ》と《ヴェスプロ》(《聖母マリアの夕べの祈り》のこと)をやりましたね。トン・コープマンがオルガンを弾きましたが、彼は全てのフレーズは長三和音で終わるべきだと主張して、私は教会旋法的に短三和音で終わりたいと思っていたところが沢山あったので、どちらが正しいかととことん議論をして、とても楽しかったのが忘れられません。
(アーノンクール指揮による最初の《ポッペアの戴冠》のレコード)
その時にケルンのオペラのディレクターだったドレーゼがとても興味を持ってくれて、彼はチューリヒのオペラに移ることが決まっており、チューリヒへ行ったら是非、モンテヴェルディのオペラのチクルスをやってくれ、と持ちかけられたのです。それから演出家のポネルと初めて会って、彼が亡くなるまでずっと一緒に仕事をさせて頂きました。
W: 今DVDになっているモンテヴェルディの三大オペラですね。
(アーノンクール指揮による《ポッペアの戴冠》のレーザーディスク。
現在はDVDになっている。)
H: あれは本当に映画のようにつくられた作品になりました。ポネルは、ただオペラの舞台をそのまま映像化する、というのではなく、本当に映画スタジオをウィーンで借りて、あれを制作しました。そして、この1つのオペラをつくるために6週間という時間をかけたのです。このウィーンのスタジオというのは、第一次世界大戦前からあった、世界で最古の映画スタジオではないかと思います。
W: では、その後に撮られた《コジ・ファン・トゥッテ》も同じような方法ですね。
H: 《コジ・ファン・トゥッテ》も同じように作りましたが、スタジオはミュンヘンでした。私たちが音楽の収録をウィーンでしている間、ポネルは体調が悪く、パリでバイパスの手術をして、パリからウィーンにいる私に毎日のように電話をかけて来ました。それこそテレサ・ストラータスがどうであるとか、グルベローヴァのフィオルディリージはどうかとか。この役は彼女には低すぎたのですが、ピッタリでしたね。ポネルは、この映画の作品のためにスタジオに街を作り池も作ってしまったぐらい大規模で、本当に興味深いものでした。
W: オペラについていろいろ伺ったついでに、興味本位の質問をもう一つ。ヴェルディの作品は、《アイーダ》と《レクイエム》のディスクを出しておられますが、今後、演奏あるいは録音のご予定はありますか。
H: 一番偉大なオペラの作曲家は誰かと考えた時に、先ず頭に浮かぶ作曲家が3人います。ドラマ、音楽、性格描写、音楽と結びついたジェスチャー等々・・・。全ての点で傑出している最高の音楽ドラマティストが、モンテヴェルディ、モーツァルト、ヴェルディだと思います。私もこういうドラマティックな音楽が大好きでありまして、《ファルスタッフ》だの《ドン・カルロ》だのというのには惹かれますが、私の年ですと、そういう大きなオペラというのはもう振らないとは思っています。百歳までは生きないと思いますから、ちょっともう遅いかな、と思います。
W: さて、この度リリースされたブラームスの《ドイツ・レクイエム》のCDを聴かせて頂き、大変すばらしい演奏で感激しました。日本では非常に重要な「レコード・アカデミー賞」を受賞されたこと、心からおめでとうと申し上げたいと思います。この作品と取り組まれるに際して、特に力を入れられたことなどあれば是非伺いたいと思います。
H: もちろんこの曲は、私がウィーン交響楽団の楽団員であった時代(1952~69)から頻繁に演奏した作品です。私にとっては、ブラームスがこの作品に書いたことをすべて研究するということが重要でした。ブラームスの没後、彼の持ち物はすべて楽友協会のライブラリーに寄贈されました。彼が所有していたシューベルトの交響曲なども、その中にあったわけです。それらの資料を研究することにより、このレクイエムに関してのブラームスの考えについて多くの発見がありました。私たちに何か疑問があった時に、図書館長のドクター・ビーバが「こういう文献がちゃんとあるよ」とすぐ出して下さるので、本当にブラームスその人と接触があったような感じがしました。
ところで、1953年、結婚したばかりの私たちが住むところを探していたところ、フリッシュ先生というミツバチの研究でノーベル賞を受賞された方のご親類から、大きな部屋を借りることができました。そこでコンツェントゥスのリハーサルもやっていたんですが、未亡人になられた姉妹の一人が言っていました。「私が子どもの頃、ブラームスが二週に一度はやって来て、ここでピアノを弾いていたのよ」と。その方の兄弟たちとトリオやカルテットなどの室内楽をやっていたそうです。その老婦人の話というのが、「本当に醜い、小さな親爺だった、高いきいきい声で話していて・・・」というようなものでした。彼女は譜めくりをいつもさせられていて、ブラームスのことはどうやらあまり好きではなかったらしい。でも私たちは、そこの床にあったチェロのエンドピンであいた穴でさえ、とても大事なものに思っていたのです。
W: アーノンクールさんは、滅多にないほどレパートリーの広い演奏家でいらっしゃいますが、アーノンクールさんと言えば、一般的にはバッハやモーツァルトなど古楽のイメージが強いわけで、そのアーノンクールさんが、近年はロマン派どころか近現代の作品まで手がけられることに対して、疑問や違和感を感じる一般の聴き手の方も少なくないのではないか、と思うのですが・・・・・。
H: 私は決して古い音楽のスペシャリストになりたいとは思ったことはありませんし、この、正にスペシャリストでないということが重要だと思っています。バッハ、モーツァルト、モンテヴェルディの音楽が素晴らしいのは、今日の私たちにも直接語りかけてくれるからです。例えば、このカラヴァッジョの絵(と、《ポッペアの戴冠》のレコードの表紙を指さしながら)ですけれども、これは人類が存続する間、常に現代的であり続けると私は信じています。私が興味を持つのは、そういう時を超える音楽、芸術です。人間が抱える悩みというのはいつでも同じで、1000年たっても多分変わらないだろうと思います。
ですから、私は博物館に入っているような芸術には興味はありません。古いものをただのぞき見るだけでは意味がない。そうではなくて、やはりモンテヴェルディ、モーツァルト、バッハのように、今の私たちに語りかけてくれる音楽、そういう音楽は私たちの人生にどういう影響を与えるのか、そういうことに興味を持っているのです。
私たちは古楽器を使っています。それは、どんな音楽も、やはりその時の言語で表現するのが一番適していると思っているからで、これは劇を見てもそうです。シェイクスピア、ゲーテ、シラー等々、誰をとってもオリジナルの言語に勝るものはない。それはいつも意識していますけれども、それによって生身の人間のために演奏しているわけなので、やはり古いものをただ繰り返すだけではだめなのです。同時に、自分たちの時代に合った言語で表現しなければなりません。これは非常に複雑な問題です。
私が19世紀あるいは20世紀の音楽を演奏していない時期というのは全くありませんでした。1935年頃、私の叔父というのがガーシュウィンの友達で、彼の全作品のスコアを入手して父に送って来ました。私はまだ5歳の子どもでしたが、父がそれらの歌曲をピアノを弾きながら歌うのを聴いて、すごく感動したのを覚えています。彼の全歌曲、《ポーギーとベス》も含めて、私は常々、本当に重要な音楽だと思っておりました。ですから、《ポーギーとベス》を取り上げ録音したことは、私の人生の中でも最も重要な活動の一つであったと思っています。彼のさまざまな文献を研究し、プロンプターのメモさえも見ました。そして、彼がなぜそこにカットを入れたのか、その理由なども含めていろいろと研究した結果、私なりのヴァージョンというものを歌手たちと作り上げて行った。私が勝手にしたのではなくて、ガーシュウィンの考えをもとにやったわけです。
また1936年か7年ぐらいに、父と共に、ベラ・バルトーク自身のコンサートに行きました。偉大なコンサートで、私はまだ小さい子どもでしたけれども、本当に忘れられない経験でした。
W: なるほど。そうした御自身の経験を踏まえた活動をなさっているわけですね。
H: まだ若い学生の頃、あるいはオーケストラの若手として活動を始めた頃などに、滅多に演奏されないバッハ以前の古い音楽が、本当につまらなく演奏される場面に何度も出くわしました。でも、カラヴァッジョの絵やベルニーニの彫刻と同じ時代に、こんなつまらん音楽があったはずがないと思い、きっと正しい演奏法があるに違いない、と考え始めたのです。しかも、その時代にふさわしい炎のような情熱を持って演奏するべきだと私は考えました。それが私たちが古楽を始めた理由であるのですけれども、それだけが私の活動であるわけではありません。シューベルトを弾いている時には、もうこれが最高の作曲家だと思いますし、バッハの時にも、ガーシュウィンでも同じです。聴衆の方たちには、私のことを古楽の専門家だと思って頂きたくない。私は自分が音楽家だと思っているのです。そして、重要な音楽、いわゆる毎日あるような普通の音楽ではない、重要な音楽だけを演奏する人間でありたいと思っています。
W: 本日は、長時間、本当にありがとうございました。これからも、昨日のような素晴らしい演奏(サントリーホールにおけるハイドンのオラトリオ《天地創造》、終演後、日本における音楽会には珍しく、聴衆が総立ちで名演に応えた)をいつまでも続けて行って頂きたいとお祈り申し上げております。
W: 今回はアーノンクールさんの「最後の(!!!!!)来日」ということでもありますので、ちょうど30年前――1980年の11月――に日本に最初に来られた時のことを思い返しながら、お話を伺いたいと思います。その時も私が、同じ『レコード芸術』誌のために、インタヴューさせて頂いたのでした。あの頃は、日本における古楽器演奏もまだ緒に就いたばかりで、ヨーロッパから来られた本格的な古楽器の楽団としては、コンツェントゥス・ムジクスが初めてではなかったかと思います。
(下は、1980年夏、レオンハルトとアーノンクールのエラスムス賞同時受賞を特集したオランダの音楽雑誌の表紙の写真)
H: 私たちにとって古楽器で演奏するというのは、もう決して新しいことではありませんでした。イギリス、フランス、イタリアなどではまだ新しいとみなされていましたが、私たちのグループでは、1953年からやっていました。
W: 私は1971年にチェンバロを始めまして、それから間もなく、こういう新しいやり方のバロック音楽の演奏法というものがあるということを知りました。アーノンクールさんたちのレコードは、古楽器を始めたばかりの私たちにとってのお手本でした。
H: (1965年録音のバッハ《ヨハネ受難曲》のレコードの解説書の写真に見入りながら)これはレオンハルト、そしてリュートのドンボワもいますね。
レオンハルトは、この世界では、私にとって数少ない本当の友人の一人でした。私たちの弦楽器奏者は6~7人、レオンハルト・コンソートには5人ぐらいいたので、どうしても人数が必要な時には、ヴァイオリン2人、ヴィオラ1人貸してちょうだいといった具合で、彼が通奏低音を弾いて、よく協演しました。
W: 私は1973年にオランダに留学しましたが、向こうへ行って間もない1974年の1月に『モンテヴェルディ週間』というイベントをレオンハルトと協同でなさいました。アーノンクールさんは、コンツェントゥス結成の翌年(1954年)、ヒンデミットの指揮でオリジナル楽器による《オルフェオ》の初めての演奏に参加されて、強い衝撃を受けたと、京都賞の時のスピーチで述べておられますね。その時の演奏がこの春初めてCD化されたのを聴きましたが、驚くべき演奏で、あの時代によくあそこまで出来たものだと舌を巻きました。
W: 1974年の『モンテヴェルディ週間』は私たちにとって、「原体験」のようなものになりました。
H: ええ、よく覚えていますよ。あの時は《オルフェオ》と《ヴェスプロ》(《聖母マリアの夕べの祈り》のこと)をやりましたね。トン・コープマンがオルガンを弾きましたが、彼は全てのフレーズは長三和音で終わるべきだと主張して、私は教会旋法的に短三和音で終わりたいと思っていたところが沢山あったので、どちらが正しいかととことん議論をして、とても楽しかったのが忘れられません。
(アーノンクール指揮による最初の《ポッペアの戴冠》のレコード)
その時にケルンのオペラのディレクターだったドレーゼがとても興味を持ってくれて、彼はチューリヒのオペラに移ることが決まっており、チューリヒへ行ったら是非、モンテヴェルディのオペラのチクルスをやってくれ、と持ちかけられたのです。それから演出家のポネルと初めて会って、彼が亡くなるまでずっと一緒に仕事をさせて頂きました。
W: 今DVDになっているモンテヴェルディの三大オペラですね。
(アーノンクール指揮による《ポッペアの戴冠》のレーザーディスク。
現在はDVDになっている。)
H: あれは本当に映画のようにつくられた作品になりました。ポネルは、ただオペラの舞台をそのまま映像化する、というのではなく、本当に映画スタジオをウィーンで借りて、あれを制作しました。そして、この1つのオペラをつくるために6週間という時間をかけたのです。このウィーンのスタジオというのは、第一次世界大戦前からあった、世界で最古の映画スタジオではないかと思います。
W: では、その後に撮られた《コジ・ファン・トゥッテ》も同じような方法ですね。
H: 《コジ・ファン・トゥッテ》も同じように作りましたが、スタジオはミュンヘンでした。私たちが音楽の収録をウィーンでしている間、ポネルは体調が悪く、パリでバイパスの手術をして、パリからウィーンにいる私に毎日のように電話をかけて来ました。それこそテレサ・ストラータスがどうであるとか、グルベローヴァのフィオルディリージはどうかとか。この役は彼女には低すぎたのですが、ピッタリでしたね。ポネルは、この映画の作品のためにスタジオに街を作り池も作ってしまったぐらい大規模で、本当に興味深いものでした。
W: オペラについていろいろ伺ったついでに、興味本位の質問をもう一つ。ヴェルディの作品は、《アイーダ》と《レクイエム》のディスクを出しておられますが、今後、演奏あるいは録音のご予定はありますか。
H: 一番偉大なオペラの作曲家は誰かと考えた時に、先ず頭に浮かぶ作曲家が3人います。ドラマ、音楽、性格描写、音楽と結びついたジェスチャー等々・・・。全ての点で傑出している最高の音楽ドラマティストが、モンテヴェルディ、モーツァルト、ヴェルディだと思います。私もこういうドラマティックな音楽が大好きでありまして、《ファルスタッフ》だの《ドン・カルロ》だのというのには惹かれますが、私の年ですと、そういう大きなオペラというのはもう振らないとは思っています。百歳までは生きないと思いますから、ちょっともう遅いかな、と思います。
W: さて、この度リリースされたブラームスの《ドイツ・レクイエム》のCDを聴かせて頂き、大変すばらしい演奏で感激しました。日本では非常に重要な「レコード・アカデミー賞」を受賞されたこと、心からおめでとうと申し上げたいと思います。この作品と取り組まれるに際して、特に力を入れられたことなどあれば是非伺いたいと思います。
H: もちろんこの曲は、私がウィーン交響楽団の楽団員であった時代(1952~69)から頻繁に演奏した作品です。私にとっては、ブラームスがこの作品に書いたことをすべて研究するということが重要でした。ブラームスの没後、彼の持ち物はすべて楽友協会のライブラリーに寄贈されました。彼が所有していたシューベルトの交響曲なども、その中にあったわけです。それらの資料を研究することにより、このレクイエムに関してのブラームスの考えについて多くの発見がありました。私たちに何か疑問があった時に、図書館長のドクター・ビーバが「こういう文献がちゃんとあるよ」とすぐ出して下さるので、本当にブラームスその人と接触があったような感じがしました。
ところで、1953年、結婚したばかりの私たちが住むところを探していたところ、フリッシュ先生というミツバチの研究でノーベル賞を受賞された方のご親類から、大きな部屋を借りることができました。そこでコンツェントゥスのリハーサルもやっていたんですが、未亡人になられた姉妹の一人が言っていました。「私が子どもの頃、ブラームスが二週に一度はやって来て、ここでピアノを弾いていたのよ」と。その方の兄弟たちとトリオやカルテットなどの室内楽をやっていたそうです。その老婦人の話というのが、「本当に醜い、小さな親爺だった、高いきいきい声で話していて・・・」というようなものでした。彼女は譜めくりをいつもさせられていて、ブラームスのことはどうやらあまり好きではなかったらしい。でも私たちは、そこの床にあったチェロのエンドピンであいた穴でさえ、とても大事なものに思っていたのです。
W: アーノンクールさんは、滅多にないほどレパートリーの広い演奏家でいらっしゃいますが、アーノンクールさんと言えば、一般的にはバッハやモーツァルトなど古楽のイメージが強いわけで、そのアーノンクールさんが、近年はロマン派どころか近現代の作品まで手がけられることに対して、疑問や違和感を感じる一般の聴き手の方も少なくないのではないか、と思うのですが・・・・・。
H: 私は決して古い音楽のスペシャリストになりたいとは思ったことはありませんし、この、正にスペシャリストでないということが重要だと思っています。バッハ、モーツァルト、モンテヴェルディの音楽が素晴らしいのは、今日の私たちにも直接語りかけてくれるからです。例えば、このカラヴァッジョの絵(と、《ポッペアの戴冠》のレコードの表紙を指さしながら)ですけれども、これは人類が存続する間、常に現代的であり続けると私は信じています。私が興味を持つのは、そういう時を超える音楽、芸術です。人間が抱える悩みというのはいつでも同じで、1000年たっても多分変わらないだろうと思います。
ですから、私は博物館に入っているような芸術には興味はありません。古いものをただのぞき見るだけでは意味がない。そうではなくて、やはりモンテヴェルディ、モーツァルト、バッハのように、今の私たちに語りかけてくれる音楽、そういう音楽は私たちの人生にどういう影響を与えるのか、そういうことに興味を持っているのです。
私たちは古楽器を使っています。それは、どんな音楽も、やはりその時の言語で表現するのが一番適していると思っているからで、これは劇を見てもそうです。シェイクスピア、ゲーテ、シラー等々、誰をとってもオリジナルの言語に勝るものはない。それはいつも意識していますけれども、それによって生身の人間のために演奏しているわけなので、やはり古いものをただ繰り返すだけではだめなのです。同時に、自分たちの時代に合った言語で表現しなければなりません。これは非常に複雑な問題です。
私が19世紀あるいは20世紀の音楽を演奏していない時期というのは全くありませんでした。1935年頃、私の叔父というのがガーシュウィンの友達で、彼の全作品のスコアを入手して父に送って来ました。私はまだ5歳の子どもでしたが、父がそれらの歌曲をピアノを弾きながら歌うのを聴いて、すごく感動したのを覚えています。彼の全歌曲、《ポーギーとベス》も含めて、私は常々、本当に重要な音楽だと思っておりました。ですから、《ポーギーとベス》を取り上げ録音したことは、私の人生の中でも最も重要な活動の一つであったと思っています。彼のさまざまな文献を研究し、プロンプターのメモさえも見ました。そして、彼がなぜそこにカットを入れたのか、その理由なども含めていろいろと研究した結果、私なりのヴァージョンというものを歌手たちと作り上げて行った。私が勝手にしたのではなくて、ガーシュウィンの考えをもとにやったわけです。
また1936年か7年ぐらいに、父と共に、ベラ・バルトーク自身のコンサートに行きました。偉大なコンサートで、私はまだ小さい子どもでしたけれども、本当に忘れられない経験でした。
W: なるほど。そうした御自身の経験を踏まえた活動をなさっているわけですね。
H: まだ若い学生の頃、あるいはオーケストラの若手として活動を始めた頃などに、滅多に演奏されないバッハ以前の古い音楽が、本当につまらなく演奏される場面に何度も出くわしました。でも、カラヴァッジョの絵やベルニーニの彫刻と同じ時代に、こんなつまらん音楽があったはずがないと思い、きっと正しい演奏法があるに違いない、と考え始めたのです。しかも、その時代にふさわしい炎のような情熱を持って演奏するべきだと私は考えました。それが私たちが古楽を始めた理由であるのですけれども、それだけが私の活動であるわけではありません。シューベルトを弾いている時には、もうこれが最高の作曲家だと思いますし、バッハの時にも、ガーシュウィンでも同じです。聴衆の方たちには、私のことを古楽の専門家だと思って頂きたくない。私は自分が音楽家だと思っているのです。そして、重要な音楽、いわゆる毎日あるような普通の音楽ではない、重要な音楽だけを演奏する人間でありたいと思っています。
W: 本日は、長時間、本当にありがとうございました。これからも、昨日のような素晴らしい演奏(サントリーホールにおけるハイドンのオラトリオ《天地創造》、終演後、日本における音楽会には珍しく、聴衆が総立ちで名演に応えた)をいつまでも続けて行って頂きたいとお祈り申し上げております。
by cembalofortepiano
| 2011-10-28 18:24
| 音楽いろいろ