2011年 11月 02日
フランス・ブリュッヘン |
INTERVIEW フランス・ブリュッヘン
《レコード芸術》の9月号に掲載されたもの。
私がブリュッヘン氏に初めて会ったのは、1973年の春、彼の初来日の時であった。リコーダーのスーパースターで、世界一カッコイイ古楽器奏者であった。
コンサートが終わると、サインを求める女性ファンが楽屋口でひしめき合った。1980年秋、チェンバロ奏者としてオランダ留学を終えた私は、ブリュッヘン氏の来日公演でチェンバロ伴奏者を務めた。それは、リコーダー奏者としての、彼の4度目にして最後ともなった日本ツアーであった。
当時、彼は私財を抛って古楽器による本格的なシンフォニック・オーケストラを立ち上げようと、暇さえあれば手紙ばかり書いていた。日本ツアーで国内を一緒に移動する電車の中などでも、彼は、モーツァルトやベートーヴェンの交響曲に対する熱い想いをひっきりなしに語るのだった。
1988年秋、待ちに待ったブリュッヘン氏率いる古楽器オーケストラ「18世紀オーケストラ」の初来日が実現した。プログラムは、モーツァルトの《交響曲第38番「プラハ」》とベートーヴェンの《交響曲第2番》。演奏水準の高さも、選曲の妙も、長らく待ち望んで膨らませだ期待をはるかに上回るものであったが、一般には、モーツァルトなら最後の2つの交響曲、ベートーヴェンなら《英雄》以降の奇数番交響曲が望まれていることを知って愕然となる。私などは、次には是非ともベートーヴェンの《第4番》が聴きたいと思っていたのに・・・・・。
その後は、レコード(CD)の普及とも相俟ってこのオーケストラの知名度も上がり、頻繁な来日が実現。幅広いファン層を獲得したが、最後の来日は2002年。2005年以降は、新日本フィルハーモニー交響楽団がブリュッヘン氏を客演指揮者として2年ごとに招聘。特に前回(2009年2月)は、ハイドンの没後200年という記念の年に、ハイドンのロンドン交響曲(第93~104番)の連続チクルスとオラトリオ《天地創造》によって注目を集めた。私も通奏低音奏者として《天地創造》に参加し、チェンバロとフォルテピアノを担当した。
そして今回は、ブリュッヘン氏が最も力を入れているベートーヴェンの交響曲の全曲チクルス、そしてブリュッヘン氏の自家薬籠中とも言えるバッハの《ミサ曲ロ短調》という贅沢なプログラムが実現した。
渡邊(以下W):何か改まった感じで変なんですけれども、私が最初に日本でブリュッヘンさんのリコーダーとフラウト・トラヴェルソと共演させて頂いた時以来、30年余りの歳月が流れ、音楽を取り巻く環境なども随分変わったなと思いますが、まずその辺のお話を伺いたいと思います。
ブリュッヘン(以下B):本当にあのコラボレーションがとても幸せなものだったということはよく覚えております。ですけれども、あれは自分の前の世界だったのだな、と思います。というのも、私は生まれ変わってほかの人生を歩み始め、1981年からオーケストラの指揮者としての活動を始めたのです。(下線部は傍点にする)
W:年配の古楽ファンたちは、ブリュッヘンさんのリコーダーやトラヴェルソの演奏が聴けなくなったことをいまだに残念がっているのではないでしょうか。これらの管楽器は、もう全然演奏されないんですか。
B:もう1音も出しません。
W:それはとても残念なことですね。
B:今は若い世代がどんどん育っていますし、我々の世代の生徒、そして孫に当たる、あるいは曾孫(ひまご)に当たる生徒さんたちがほんとうに素晴らしい活動をしています。それが時代の流れですから、それで良いのではないですか。
W:ではオーケストラの指揮についてうかがいたいと思います。「18世紀オーケストラ」のような古楽器のオーケストラの指揮をするのと、今回のように、現代のオーケストラで古典派の時代、ベートーヴェンの時代の演奏スタイルに即した演奏をするのとでは、何処が一番大きく違うのでしょうか。
B:まずは音の違いが一番大きいです。ですけれども、このようなピリオド奏法(作曲当時の演奏習慣に則った演奏)においては、一番の鍵は、音楽家の頭の中にあると思います。
W:私は2年前にハイドンの《天地創造》で、同じオーケストラでご一緒させていただいて、このオーケストラの人たちのアダプタビリティーに非常にびっくりした覚えがあるんですけれども、今日はまたリハーサル(第6番及び第7番)を聴かせていただいて、2年前にハイドンをやったとき以上に、オーケストラのサウンドがすばらしいのに大変びっくりしました。
B:本当にこのオーケストラは素晴らしいオーケストラだと思います。彼らは私が指示することすべてを覚えているのです。それに即反応いたします。そしてまた、自分たちの知らないことなどは、ほんとうに早く学ぼう、吸収しようという意欲に満ちています。ですから彼らと一緒に仕事をすることは、私にとっても本当に大きな喜びなのです。
W:これはオーケストラの若いメンバーたちから雑談の中で聞いた話なんですが、ブリュッヘンさんの指示というのは非常に示唆に富んでいて、自分たちがいろいろ音楽を感じたり、考えたりする上で、非常に有益なヒントをたくさん下さると言っていました。例えばベートーヴェンはハイドンとどこが違うか、というようなことを、自分たちが目の前にしている楽譜で、自分たちの感覚でいろいろなことを気づかせてくれる、と言っていました。
B:交響曲の発明者であったハイドンの音楽から直接ベートーヴェンに進むというのは、私はとてもいいことだと考えています。モーツァルトという作曲家は、18世紀においては特別な、例外的な作曲家でありました。私たちは、2年前にハイドンの交響曲を一緒に演奏したわけですが、そこからモーツァルトを介さずに直接ベートーヴェンに進めたのは、大変幸運だったと思います。リハーサルのやり方にも工夫をしており、今回の私たちはまず全部のシンフォニーをざっとさらってから、1回ずつのコンサートに向けて、それぞれの公演のプログラムを細部まで練習する、という方法を採っています。
W:そういうやり方だと、全体と個々の楽曲の関係がよく見えてきますね。聴く側にとっても、今回、ベートーヴェンの交響曲をすべて番号順に聴くことができるチクルスになっているというのは、大変すばらしいことだと思います。チラシの中でもブリュッヘンさんが言っておられたことですけれども、奇数番号が非常に進歩的であるのに対して、偶数番のほうがちょっと逆戻りすることがある。そうした創作の流れは、番号順に聴いてみないと見えて来ませんから。
B:ベートーヴェンの《第1交響曲》というのは、彼自身にとっても非常に大きな第一歩でした。彼にとってのハイドンというのはまことに大きな存在で、それを乗り越えなければいけないというのを強く意識していました。そして大変興味深いことに、ベートーヴェンがこの1番を書いた時には、30歳という、作曲家としては既にかなりの年齢に達していました。彼にとっては、ハイドンの最後の交響曲というものが常に頭の中にありますから、それをどうやったら乗り越えて自分は前に進めるのだろうか、というような、一種の恐怖を抱いていたのでしょう。後のブラームスが全く同じような経験をしていまして、彼も《交響曲1番》を完成した時には何と43歳になっていました。
ベートーヴェンの1番に戻りますと、これはハイドンよりもさらに交響曲の可能性というものを進めたものです。例えば、この曲のオープニングは大きな不協和音で始まっています。ベートーヴェンの交響曲の中でも、不協和音で始まるのはこれのみです。ほかの大きな曲で、不協和音で始まる作品というのは皆無ではありません(例えばバッハのカンタータの54番など)が、そういうものを《交響曲第1番》に使うというのは非常に大きな冒険でした。そして第2番は、そのような大きな飛躍を伴ってはいません。そして3番の《エロイカ》で非常に大きな前進をし、また4番で少し後退を・・・という具合です。
W:今日のリハーサルを聴かせて頂いて、7番がいかに斬新な音楽であるか、また《田園》のような偶数番のシンフォニーが、当時の聴衆には非常にすんなり受け入れられたということがよく実感できました。
B:《田園》という曲は、自然というのがテーマです。そして一般的なことですけれども、自然というのはわかりやすいのです。暖かかったり、寒かったり、日が照ったり嵐が来たりはしますが、その中には冒険という要素はあまりありません。しかしこれは非常によく書けた作品です。ベートーヴェンやハイドンの作品の背後には、描写的な、あるいは文学的な要素、隠された標題というのがあります。《田園》とセットで書かれた第5番では、《田園》とは裏腹に、「自由」という理念的な問題が重要です。ピッコロのような大衆の楽器やコントラファゴット、トロンボーンのように教会に属している楽器、そうしたいろいろな素性の楽器が終楽章で参加し、極めて効果的に用いられていることは、この音楽のコンセプトと深い関係があるのです。7番は戦争。これはナポレオンとの戦争で亡くなったりけがをした兵隊たちのためのチャリティーコンサートで演奏されました。8番というのは機械的なもの。特に1楽章と終楽章においてゲーテのバラード《魔法使いの弟子》が隠された標題となっている、というシェーリングの指摘は正しいかも知れません。これはデュカスが後に題材として取り上げたことで、有名になったものです。この曲の中で、ベートーヴェンはメトロノームとか、当時盛んに作られた機械仕掛けのオルガンなどと並んで、「魔法使いの弟子」の自動的に動く箒なども登場させています。しかしながら、ベートーヴェンやハイドンは、自分の作品の背後にあるこのような隠れた標題について公にすることはありませんでした。それは、彼らの中の、自分たちの秘密というようなものだったようです。
W:今回は、ベートーヴェンの9曲のシンフォニーと並で、バッハの《ミサ曲ロ短調》も演奏されますね。ブリュッヘンさんの演奏活動の中ではバッハが非常に重要なレパートリーの一角を占めていることは周知の事実ですけれども、日本のオーケストラが、バッハをこういう形で取り上げるというのは非常に珍しいので、その点でとてもびっくりしました。
B:実は、オーケストラの方からの最初のリクエストは、ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》だったのです。しかし私は、どうせミサ曲をやるなら、この世の中で書かれたミサ曲の中でも多分最も美しいバッハの《ロ短調ミサ曲》をやりたい、ということで、こうなったわけです。この作品が最初に出版されたのは19世紀の半ば頃で、これを出したネーゲリというスイスの出版社は「あらゆる時代を通じて最も偉大な芸術的・音楽的な作品である」というふうに宣伝したのですが、この言葉は正に当を得たものだと言えるでしょう。
W:最近お出しになった《ミサ曲ロ短調》のCDを聴きましたけれども、大変すばらしい演奏で感動しました。前の録音とは大分印象が違いますね。
B:私たちの録音については、「18世紀オーケストラ」の設立以来、マネージャーを務めているシウヴェルト・フェルスターがここにいるので、彼の方から話して貰いましょう。
フェルスター:我々は、1981年にこのオーケストラを結成した時、最初の数年間は録音をしないようにしよう、と決心しました。そして、いよいよ時機が熟して、「今こそライヴ・レコーディングをするべきだ」ということになった時、ユトレヒトに新しい音楽ホールが出来、各ツアーの最後にはそこで3回演奏をすることにして、その中で一番出来の良いものをCDにして行った、というわけです。それから15年をかけ、私たちはモーツァルト、ベートーヴェン、ハイドンやバッハ、シューベルトやメンデルスゾーン等々、様々なものをCD化することが出来ました――フィリップスというレコード会社がなくなってしまうまでに。その後、スペインのグロッサという会社とコラボレーションが出来ることになり、20年前に録音したレパートリーを再録音するような機会が生まれました。ベートーヴェンの交響曲も、今年の終わりには全曲の再録音が出来るのではないか、と考えています。最初に録音した時には10年かけました。毎年1曲ずつ掘り下げていって録音するという形でありましたけれども、今の私たちはこの曲を1週間か10日で全部弾くことが出来ます。ですから、最初の時には自分たちの深い研究の成果というものを録音しましたが、今度は新しい形で、私たちが30年間この曲とともに生きてきた、その証というものを皆様に聴いていただきたいと考えています。
W:ブリュッヘンさんのレパートリーの下限というのはどの辺ですか。
B:私はブラームスの初期までは指揮します。それ以降の音楽では、ストラヴィンスキーを例外的に取り上げています。ですから、ブラームスの中期からストラヴィンスキーまでの時代というのは、ほかの指揮者の方にお任せしている、ということになりますね。
W:今後の日本での演奏活動についてのプランはありますか。
B:「18世紀オーケストラ」は1988年以来ほとんど2年ごとに日本に来ていたのですが、
2002年が最後となってしまい、それ以来、来ていません。もう一度、是非日本ツアーを実現させたいと思っています。
その後の交渉と調整の結果、2013年春を期して、18世紀オーケストラの「最後の来日公演」が計画されている。
by cembalofortepiano
| 2011-11-02 00:17
| 音楽いろいろ