2014年 08月 07日
悲しい出来事 |
8月1日のモンテヴェルディのコンサートは、私たち家族3人にとって素晴らしい体験でしたが、実は、大変辛い側面もあったのです。というのは、何と、私たちの家族の大事な一員だった愛犬のはなちゃんが、コンサート直前の7月31日午前1時35分頃に死んでしまったからです。私自身が記憶している限り、これ以上悲しい出来事に出遭ったことはありません。
はなは、このブログでも、かなり以前に二度ほど登場しました。それをご覧になれば、如何に私たちがはなを溺愛していたか、おわかり頂けるでしょう。私たち夫婦だけでなく、息子夫婦も、家族みんなでそうだったのです。
■病気の経緯
発端は、6月30日の月曜日でした。前の晩まで、元気よく力一杯走り回っていたはなが急に具合が悪くなって動かなくなってしまったのです。次の日、かかりつけの獣医さんの往診を頼んだところ、「心臓じゃないか」という話になり、翌日の水曜日に、多少具合が良くなって動けるようにもなったので、病院に連れて行って心電図を取るなどして調べましたが、心臓には全く異常が見られませんでした。狐につままれたような思いで首を傾げつつ、家に帰りましたが、いっかな具合が良くなりません。
翌週になっても回復しないので、また病院に連れて行って血液などを採って検査したところ、膵臓の数値がひどく悪く、膵炎ではないか、ということになり、強い薬の投与が始まりました。7月10日頃のことです。食事も、脂肪質の少ないエサにして、鶏のささみなども混ぜて食べさせました。薬は見つけると出してしまうので、パンやその他の食べ物でくるんで誤魔化しました。そしてほぼ2週間が経過し、23~25日頃が回復のピークとなりました。よく吠えるし、とび跳ねるしで、「もう来週ぐらいになれば元通りの元気になるね」と家族の間でも話していました。しかしはなの方は、この頃になると、どう誤魔化して薬を飲ませようとしても見つけて出してしまうようになりました。これは、はなの方からの、薬に対する精一杯の抵抗だったのですね。
■危機
27日の日曜日になって状態が急変し、動きもせず、ごはんも食べないので慌てて医者へ連れて行ったところ、肝臓の数値が最悪で黄疸も出ている、というかなりの末期的症状で、緊急入院となりました。
28日に見舞いに行ったところ、大喜びで出て来て、帰りたい様子でした。もともとはなは病院が大嫌いだったのです。黄疸も、前日よりはやや改善している様子でした。しかし我々は、翌日に自宅からはかなり離れた中央線の沿線で長時間のリハーサルが予定されており、もう少し病院にいた方がはなのためにも良い、と判断して、断腸の思いで病院を後にしました。
29日は我々が忙しかったので、息子に見舞いに行って貰いましたが、容態が思わしくないとのこと。30日の朝、病院へ電話したところ、更に容態が悪化していることを知らされ、それでは一も二もなく家へ引き取ろう、ということになって迎えに行きました。息子も会社を休んで、はなを看病しようと一緒に迎えに行きました。はなは、病院の中では無理して普通の様子を装っていたのか、特別具合が悪そうにも見えなかったのですが、血液検査の結果では、肝臓だけでなく腎臓も悪くなっており、いわば多臓器不全という状態でした。家の門をくぐって、いつもの場所でオシッコをするのを見た時は、ほっと胸をなでおろしたのですが、その安堵の念も束の間、家に入っていつものようにパソコンの横にある洗面器で水を飲んだ後は、崩れるようにうずくまってしまいました。
外でずっと無理していたのが家に帰ってすっかり緊張がほぐれて、ガクッと来たんですね。このまま逝ってしまうのではないか、と思うと、どっと涙が溢れ出ました。犬ってこんなにもけなげな動物なんだ、ということを改めて思い知らされた瞬間でした。
■最後の希望
それからは、息子やカミサンと、かわるがわる、体を温めたり頭を冷やしたり、背中をさすったりしていましたが、やがてむっくり起き上がると、玄関のホールのトイレのドアの前に陣取りました。その時の表情にとても心を動かされ、写真を撮りましたが、それが私が撮ったはなの最後の写真になりました。
右足に点滴の装置を付けているので、赤い格子縞の包帯で巻いています。高円寺で18時からリハーサルの予定だったので、出発の時間が迫っていました。
「帰ってくるまで待っててね」と祈るような気持ちと後ろ髪を引かれる想いで、後を息子に委せて家を出たのが4時半頃。しばらくすると息子から連絡があり、流動食の御飯を食べるようになった、とか、水やジュースを飲んだ、とか・・・いわば明るい経過報告があり、少し安心して練習に集中することが出来ました。
夜の10時過ぎに3人で帰宅し、玄関のドアを開けた途端、ホールに寝ていたハナがいつもの嬉しそうな表情で尻尾を振ってくれたのを見て、本当にほっと安堵の胸をなで下ろしました。でも、後から考えてみると、その時はもう、首を持ち上げる力は残っていませんでした。
■夜更け
コンサートの直前であったにも拘わらず、皆で交替で寝ずの番をしよう、ということになり、私が一番手を引き受けました。初めは、パソコン仕事でもしながら時折様子を見ていよう、と思っていましたが、はなの様子を見ているととてもそんな気にはなれず、簡易なマットをはなの横に置いて私もその上に横になり、腫れている肝臓あたりに手を当てながらずっとさすっていました。時々、私の掌の真ん中あたりが熱を持ってドキドキして来ると、何とかはなの毒を私の掌で吸い取れないものかと、神経を集中しました。おならが出たりすると、「そうだ、そうだ、悪いものはドンドン出してしまえ」と念じました。
はなは、ずっと眼を開けたままハアハア荒い息をしていました。みんなが賞めてくれたはなのトレードマークになった綺麗な眼は、まだ何か見えていたんでしょうか? 時々頭をなでたりしながら、「お目々をつぶって寝るんだよ、楽しい夢を見るんだよ、また一緒に湖に泳ぎに行こうね、またお散歩に行ってボールで遊ぼうね」などと、低い声でずっと話しかけていました。
午前1時半少し前頃、妙に体をよじって寝る姿勢を変えたので、注射器でジュースを飲ませたりしました。嫌な時にする拒絶反応を示さないので、大丈夫かな、と一瞬思ったのですが、もう拒絶の意志を示すことも出来なかったんですね。その後、容態が急変しました。息子を起こすために携帯電話をかけたのが1時33分のことです。その直後、前足を触るとブルブル痙攣しているような感触がありました。心臓の鼓動が猛烈に速くなり、前足から尻尾までピンと突っ張りました。私は「はな! はな!」と何度も大声で呼びました。「行っちゃダメだよ、戻っておいで!」と呼び戻そうとしたのです。でも、しばらくして気が付くと、もう呼吸をしていませんでした。心臓も止まっていました。「・・・・・ああ、とうとう・・・・・行ってしまったんだね・・・・・?」こんな小さな動物でも、死の瞬間は非情で厳粛なものでした。「痛くて・・・苦しかったのに・・・・・よく頑張ったね。ご苦労様。・・・・・もう痛くないね。もう苦しまなくても良いんだよ。」
じわじわと悲しみが襲って来て、いろいろな思い出が頭の中をくるくると廻っては消えて行きました。何かがひどく間違っていたような気がしました。5月に7回目のお誕生日を迎えたばかりだったので、本当に短い生涯でした。どんなことをしても助けたかったのに! でも何も出来なかった。 助けてあげられなくてごめんね。でも、その短い間に、はなは数え切れないほど沢山の楽しい思い出をくれました。ありがとね。・・・でも、これからも、ますます楽しい思い出を積み上げて行くのが楽しみだったのに・・・・・。
■保冷剤
家族みんなで、はなの死んだ軀をチェンバロの部屋に寝かせました。冷房と除湿を最大にしたので、部屋は冷蔵庫のようになりました。タオルケットを敷いて、軀の周りにはおもちゃやボールや、ぬいぐるみを置きました。翌日の31日と8月1日はコンサートなので何も出来ません。その次の2日の土曜日の午前中に、小坪(逗子市)の火葬場を予約しました。
知り合いの葬儀社の方が、ドライアイスは冷たくなりすぎて、肌が傷むのでやめた方がよい、保冷剤の方がずっと良いですよ、と教えて下さいました。息子は涙ぐましい努力で、3時間毎に保冷剤を取り替えていました。
31日の深夜、チェンバロの部屋に入ると室温は16度まで下がっていました。翌日使う予定のチェンバロはピッチが上がり、調整は滅茶滅茶に狂ってほとんど弾けないほどの状態でした。でも、サントリーホールで常温に戻ると、ピッチも下がり、状態も戻りました。嘘のようです。こんな状態でよくあんなにコンサートが巧く行ったものだ、と我ながら感心してしまいました。
コンサートが終わって帰宅して、玄関の扉を開けても、もうはながいつものように迎えに出て来てくれることはありません。毎日、車で家へ戻ってくる時、車を駐めてドアを開けると、必ずはなが大きな声で吠えているのがよく聞こえました。玄関を開けるとはなが前足で足踏みをしながら喜色を満面に浮かべて、うぉ~ん、うぉ~んと唸るような声で迎えてくれました。これがはなの「お帰りなさい」のごあいさつだったのです。それから優しく私の顔をなめてくれるのが、まるでラヴ・シーンのようでした。私は、家に帰ると必ず繰り返されるこの場面が楽しみで、家に帰る時はいつも浮き浮きした気分でした。もう二度と、こうした帰宅時の喜びが味わえないのかと思うと、それだけでもまた涙が出て来ます。
■お葬式
8月2日午前9時すぎに家を出て、火葬場に向かうことになりました。息子が作った手製の棺桶の中に、好きだったボールやエサと一緒に入れました。保冷剤が功を奏し、死骸はまるで生きているように綺麗でした。棺に納める時、死後硬直が解けて、体が元の柔らかさに戻っていました。撫でてみると、もう涙が止まりませんでした。私は今回ほど沢山涙を流した記憶は全くありません。火葬場ではとても親切に対応してくれるのでびっくりしました。今は、我が家のテレビの部屋の出窓の所に真新しい骨壺が、皆さんから送られた綺麗な花に囲まれて、置いてあります。昨日が初七日でした。
はなは、このブログでも、かなり以前に二度ほど登場しました。それをご覧になれば、如何に私たちがはなを溺愛していたか、おわかり頂けるでしょう。私たち夫婦だけでなく、息子夫婦も、家族みんなでそうだったのです。
■病気の経緯
発端は、6月30日の月曜日でした。前の晩まで、元気よく力一杯走り回っていたはなが急に具合が悪くなって動かなくなってしまったのです。次の日、かかりつけの獣医さんの往診を頼んだところ、「心臓じゃないか」という話になり、翌日の水曜日に、多少具合が良くなって動けるようにもなったので、病院に連れて行って心電図を取るなどして調べましたが、心臓には全く異常が見られませんでした。狐につままれたような思いで首を傾げつつ、家に帰りましたが、いっかな具合が良くなりません。
翌週になっても回復しないので、また病院に連れて行って血液などを採って検査したところ、膵臓の数値がひどく悪く、膵炎ではないか、ということになり、強い薬の投与が始まりました。7月10日頃のことです。食事も、脂肪質の少ないエサにして、鶏のささみなども混ぜて食べさせました。薬は見つけると出してしまうので、パンやその他の食べ物でくるんで誤魔化しました。そしてほぼ2週間が経過し、23~25日頃が回復のピークとなりました。よく吠えるし、とび跳ねるしで、「もう来週ぐらいになれば元通りの元気になるね」と家族の間でも話していました。しかしはなの方は、この頃になると、どう誤魔化して薬を飲ませようとしても見つけて出してしまうようになりました。これは、はなの方からの、薬に対する精一杯の抵抗だったのですね。
■危機
27日の日曜日になって状態が急変し、動きもせず、ごはんも食べないので慌てて医者へ連れて行ったところ、肝臓の数値が最悪で黄疸も出ている、というかなりの末期的症状で、緊急入院となりました。
28日に見舞いに行ったところ、大喜びで出て来て、帰りたい様子でした。もともとはなは病院が大嫌いだったのです。黄疸も、前日よりはやや改善している様子でした。しかし我々は、翌日に自宅からはかなり離れた中央線の沿線で長時間のリハーサルが予定されており、もう少し病院にいた方がはなのためにも良い、と判断して、断腸の思いで病院を後にしました。
29日は我々が忙しかったので、息子に見舞いに行って貰いましたが、容態が思わしくないとのこと。30日の朝、病院へ電話したところ、更に容態が悪化していることを知らされ、それでは一も二もなく家へ引き取ろう、ということになって迎えに行きました。息子も会社を休んで、はなを看病しようと一緒に迎えに行きました。はなは、病院の中では無理して普通の様子を装っていたのか、特別具合が悪そうにも見えなかったのですが、血液検査の結果では、肝臓だけでなく腎臓も悪くなっており、いわば多臓器不全という状態でした。家の門をくぐって、いつもの場所でオシッコをするのを見た時は、ほっと胸をなでおろしたのですが、その安堵の念も束の間、家に入っていつものようにパソコンの横にある洗面器で水を飲んだ後は、崩れるようにうずくまってしまいました。
外でずっと無理していたのが家に帰ってすっかり緊張がほぐれて、ガクッと来たんですね。このまま逝ってしまうのではないか、と思うと、どっと涙が溢れ出ました。犬ってこんなにもけなげな動物なんだ、ということを改めて思い知らされた瞬間でした。
■最後の希望
それからは、息子やカミサンと、かわるがわる、体を温めたり頭を冷やしたり、背中をさすったりしていましたが、やがてむっくり起き上がると、玄関のホールのトイレのドアの前に陣取りました。その時の表情にとても心を動かされ、写真を撮りましたが、それが私が撮ったはなの最後の写真になりました。
右足に点滴の装置を付けているので、赤い格子縞の包帯で巻いています。高円寺で18時からリハーサルの予定だったので、出発の時間が迫っていました。
「帰ってくるまで待っててね」と祈るような気持ちと後ろ髪を引かれる想いで、後を息子に委せて家を出たのが4時半頃。しばらくすると息子から連絡があり、流動食の御飯を食べるようになった、とか、水やジュースを飲んだ、とか・・・いわば明るい経過報告があり、少し安心して練習に集中することが出来ました。
夜の10時過ぎに3人で帰宅し、玄関のドアを開けた途端、ホールに寝ていたハナがいつもの嬉しそうな表情で尻尾を振ってくれたのを見て、本当にほっと安堵の胸をなで下ろしました。でも、後から考えてみると、その時はもう、首を持ち上げる力は残っていませんでした。
■夜更け
コンサートの直前であったにも拘わらず、皆で交替で寝ずの番をしよう、ということになり、私が一番手を引き受けました。初めは、パソコン仕事でもしながら時折様子を見ていよう、と思っていましたが、はなの様子を見ているととてもそんな気にはなれず、簡易なマットをはなの横に置いて私もその上に横になり、腫れている肝臓あたりに手を当てながらずっとさすっていました。時々、私の掌の真ん中あたりが熱を持ってドキドキして来ると、何とかはなの毒を私の掌で吸い取れないものかと、神経を集中しました。おならが出たりすると、「そうだ、そうだ、悪いものはドンドン出してしまえ」と念じました。
はなは、ずっと眼を開けたままハアハア荒い息をしていました。みんなが賞めてくれたはなのトレードマークになった綺麗な眼は、まだ何か見えていたんでしょうか? 時々頭をなでたりしながら、「お目々をつぶって寝るんだよ、楽しい夢を見るんだよ、また一緒に湖に泳ぎに行こうね、またお散歩に行ってボールで遊ぼうね」などと、低い声でずっと話しかけていました。
午前1時半少し前頃、妙に体をよじって寝る姿勢を変えたので、注射器でジュースを飲ませたりしました。嫌な時にする拒絶反応を示さないので、大丈夫かな、と一瞬思ったのですが、もう拒絶の意志を示すことも出来なかったんですね。その後、容態が急変しました。息子を起こすために携帯電話をかけたのが1時33分のことです。その直後、前足を触るとブルブル痙攣しているような感触がありました。心臓の鼓動が猛烈に速くなり、前足から尻尾までピンと突っ張りました。私は「はな! はな!」と何度も大声で呼びました。「行っちゃダメだよ、戻っておいで!」と呼び戻そうとしたのです。でも、しばらくして気が付くと、もう呼吸をしていませんでした。心臓も止まっていました。「・・・・・ああ、とうとう・・・・・行ってしまったんだね・・・・・?」こんな小さな動物でも、死の瞬間は非情で厳粛なものでした。「痛くて・・・苦しかったのに・・・・・よく頑張ったね。ご苦労様。・・・・・もう痛くないね。もう苦しまなくても良いんだよ。」
じわじわと悲しみが襲って来て、いろいろな思い出が頭の中をくるくると廻っては消えて行きました。何かがひどく間違っていたような気がしました。5月に7回目のお誕生日を迎えたばかりだったので、本当に短い生涯でした。どんなことをしても助けたかったのに! でも何も出来なかった。 助けてあげられなくてごめんね。でも、その短い間に、はなは数え切れないほど沢山の楽しい思い出をくれました。ありがとね。・・・でも、これからも、ますます楽しい思い出を積み上げて行くのが楽しみだったのに・・・・・。
■保冷剤
家族みんなで、はなの死んだ軀をチェンバロの部屋に寝かせました。冷房と除湿を最大にしたので、部屋は冷蔵庫のようになりました。タオルケットを敷いて、軀の周りにはおもちゃやボールや、ぬいぐるみを置きました。翌日の31日と8月1日はコンサートなので何も出来ません。その次の2日の土曜日の午前中に、小坪(逗子市)の火葬場を予約しました。
知り合いの葬儀社の方が、ドライアイスは冷たくなりすぎて、肌が傷むのでやめた方がよい、保冷剤の方がずっと良いですよ、と教えて下さいました。息子は涙ぐましい努力で、3時間毎に保冷剤を取り替えていました。
31日の深夜、チェンバロの部屋に入ると室温は16度まで下がっていました。翌日使う予定のチェンバロはピッチが上がり、調整は滅茶滅茶に狂ってほとんど弾けないほどの状態でした。でも、サントリーホールで常温に戻ると、ピッチも下がり、状態も戻りました。嘘のようです。こんな状態でよくあんなにコンサートが巧く行ったものだ、と我ながら感心してしまいました。
コンサートが終わって帰宅して、玄関の扉を開けても、もうはながいつものように迎えに出て来てくれることはありません。毎日、車で家へ戻ってくる時、車を駐めてドアを開けると、必ずはなが大きな声で吠えているのがよく聞こえました。玄関を開けるとはなが前足で足踏みをしながら喜色を満面に浮かべて、うぉ~ん、うぉ~んと唸るような声で迎えてくれました。これがはなの「お帰りなさい」のごあいさつだったのです。それから優しく私の顔をなめてくれるのが、まるでラヴ・シーンのようでした。私は、家に帰ると必ず繰り返されるこの場面が楽しみで、家に帰る時はいつも浮き浮きした気分でした。もう二度と、こうした帰宅時の喜びが味わえないのかと思うと、それだけでもまた涙が出て来ます。
■お葬式
8月2日午前9時すぎに家を出て、火葬場に向かうことになりました。息子が作った手製の棺桶の中に、好きだったボールやエサと一緒に入れました。保冷剤が功を奏し、死骸はまるで生きているように綺麗でした。棺に納める時、死後硬直が解けて、体が元の柔らかさに戻っていました。撫でてみると、もう涙が止まりませんでした。私は今回ほど沢山涙を流した記憶は全くありません。火葬場ではとても親切に対応してくれるのでびっくりしました。今は、我が家のテレビの部屋の出窓の所に真新しい骨壺が、皆さんから送られた綺麗な花に囲まれて、置いてあります。昨日が初七日でした。
by cembalofortepiano
| 2014-08-07 01:03
| 愛犬