2014年 08月 24日
レオンハルトのこと |
ブリュッヘンの追悼記事を毎日新聞に書きました。9月2日の夕刊に掲載の予定です。掲載が終わったら、このブログにも掲載しようと思います。レオンハルトの時とちょうど同じです。レオンハルトは、2012年1月16日に亡くなりました。このブログをお休みしていた時期です。遅ればせながら、その際に、やはり毎日新聞に書いた追悼文がありますので、それをお目にかけましょう。
グスタフ・レオンハルトは、20世紀後半から今日にかけてのクラシック音楽界において、最も大きな影響力を持った音楽家の一人であった。チェンバロ・オルガン奏者、バッハの作品をはじめとする宗教音楽やバロック・オペラの指揮者、研究者、教育者として、彼は、古楽演奏の復興の現場の最前線で指導的な役割を担ってきた。
彼は1928年、オランダの富裕な実業家の家庭に生まれた。終戦後まもなくスイスのバーゼルでチェンバロとオルガンを学び、その後、指揮の勉強のために訪れたウィーンで、同じ分野の盟友となる指揮者でチェロ奏者のニコラウス・アーノンクールと出会う。ほどなくオランダに戻り、古楽器による弦楽合奏団レオンハルト・コンソートを結成、様々な編成によるバロック期の声楽アンサンブルや器楽合奏を精力的に手がけた。彼の初期の演奏活動の中で特筆に値するのは、イギリスの声楽家でカウンター・テナーのアルフレッド・デラーと彼が率いる声楽家のチームとの共演で、この活動はレオンハルトにとって大きな財産となったに違いない。
彼の周囲では、リコーダーのフランス・ブリュッヘン、バロック・チェロのアンナー・ビルスマなど、彼の行き方に共鳴する古楽器奏者が急速にその数を増やし、それらの人々の下で学ぼうと世界各地から留学生が参集して、オランダは「古楽復興」の世界的な中心としての姿を整えて行った。レオンハルトは常にその中心にあって音楽関係者と一般の音楽ファンの尊敬を一身に集めたのである。60年代前半には、その後の彼の演奏を特徴付ける基本的なスタイルを確立し、70年より20年がかりで、アーノンクールと分担して、200曲に及ぶバッハの教会カンタータを録音、文化のノーベル賞とも言われるオランダのエラスムス賞を共同受賞した。
私は1974年より3年間彼の下で学んだが、躍動的でスケールの大きな演奏とは裏腹に彼の話し方は穏やかで物静かであり、その声音が音楽のように響いてきて、バッハの音楽の深みと広がりを実感させてくれるのであった。若い頃の私は完璧志向で常にあらゆる細部を自分のコントロール下に置くことを心がけていたのだが、卒業してしばらくの後、レオンハルトは私の演奏を聴いて、完全性の与える居心地の悪さを指摘、即興的な気分の自由な飛翔こそが重要なのだと諭すように語った。この教えこそは、彼の音楽の神髄でもあり、私は深い感銘を受けたのである。
「古楽」という新しい音楽分野が市民権を獲得してゆく過程で、音楽演奏における「歴史的正統性の可否」についての喧しい議論が世界中に巻き起こったが、レオンハルト自身は常に自らの内面の求めるところに従って地道な努力を続け、特に晩年の滋味にあふれる品格の高い演奏には反対派による批判も影をひそめざるを得なかった。
1977年秋に初来日。91年からはほぼ2年おきに来日して日本の聴衆にも親しい存在となった。2006年秋には癌により危篤の状態に陥ったが奇跡的に回復し、その後は演奏にもますます深みを加えた。しかし最近は体調も思わしくなく、先月中旬、パリ北部でのリサイタルの後、突如引退を宣言してその後の演奏会の予定をすべてキャンセル。1月16日、アムステルダムの自宅で、家族のみに囲まれ、静かに逝った。享年83歳。
(この写真はクワドロ・アムステルダム[日本では、アムステルダム四重奏団と呼ばれたこともある]。メンバーは、フランス・ブリュッヘン、ヤープ・シュレーダー、アンナー・ビルスマ)
グスタフ・レオンハルトは、20世紀後半から今日にかけてのクラシック音楽界において、最も大きな影響力を持った音楽家の一人であった。チェンバロ・オルガン奏者、バッハの作品をはじめとする宗教音楽やバロック・オペラの指揮者、研究者、教育者として、彼は、古楽演奏の復興の現場の最前線で指導的な役割を担ってきた。
彼は1928年、オランダの富裕な実業家の家庭に生まれた。終戦後まもなくスイスのバーゼルでチェンバロとオルガンを学び、その後、指揮の勉強のために訪れたウィーンで、同じ分野の盟友となる指揮者でチェロ奏者のニコラウス・アーノンクールと出会う。ほどなくオランダに戻り、古楽器による弦楽合奏団レオンハルト・コンソートを結成、様々な編成によるバロック期の声楽アンサンブルや器楽合奏を精力的に手がけた。彼の初期の演奏活動の中で特筆に値するのは、イギリスの声楽家でカウンター・テナーのアルフレッド・デラーと彼が率いる声楽家のチームとの共演で、この活動はレオンハルトにとって大きな財産となったに違いない。
彼の周囲では、リコーダーのフランス・ブリュッヘン、バロック・チェロのアンナー・ビルスマなど、彼の行き方に共鳴する古楽器奏者が急速にその数を増やし、それらの人々の下で学ぼうと世界各地から留学生が参集して、オランダは「古楽復興」の世界的な中心としての姿を整えて行った。レオンハルトは常にその中心にあって音楽関係者と一般の音楽ファンの尊敬を一身に集めたのである。60年代前半には、その後の彼の演奏を特徴付ける基本的なスタイルを確立し、70年より20年がかりで、アーノンクールと分担して、200曲に及ぶバッハの教会カンタータを録音、文化のノーベル賞とも言われるオランダのエラスムス賞を共同受賞した。
私は1974年より3年間彼の下で学んだが、躍動的でスケールの大きな演奏とは裏腹に彼の話し方は穏やかで物静かであり、その声音が音楽のように響いてきて、バッハの音楽の深みと広がりを実感させてくれるのであった。若い頃の私は完璧志向で常にあらゆる細部を自分のコントロール下に置くことを心がけていたのだが、卒業してしばらくの後、レオンハルトは私の演奏を聴いて、完全性の与える居心地の悪さを指摘、即興的な気分の自由な飛翔こそが重要なのだと諭すように語った。この教えこそは、彼の音楽の神髄でもあり、私は深い感銘を受けたのである。
「古楽」という新しい音楽分野が市民権を獲得してゆく過程で、音楽演奏における「歴史的正統性の可否」についての喧しい議論が世界中に巻き起こったが、レオンハルト自身は常に自らの内面の求めるところに従って地道な努力を続け、特に晩年の滋味にあふれる品格の高い演奏には反対派による批判も影をひそめざるを得なかった。
1977年秋に初来日。91年からはほぼ2年おきに来日して日本の聴衆にも親しい存在となった。2006年秋には癌により危篤の状態に陥ったが奇跡的に回復し、その後は演奏にもますます深みを加えた。しかし最近は体調も思わしくなく、先月中旬、パリ北部でのリサイタルの後、突如引退を宣言してその後の演奏会の予定をすべてキャンセル。1月16日、アムステルダムの自宅で、家族のみに囲まれ、静かに逝った。享年83歳。
(この写真はクワドロ・アムステルダム[日本では、アムステルダム四重奏団と呼ばれたこともある]。メンバーは、フランス・ブリュッヘン、ヤープ・シュレーダー、アンナー・ビルスマ)
by cembalofortepiano
| 2014-08-24 10:17
| 音楽いろいろ